野球部卒業記念誌

光と影 Vol.4

太陽がいっぱい夏の甲子園

  米子商業高等学校野球部の卒業記念誌「光と影」は、監督の朝西知徳先生が毎年、卒業していく選手たちのために、手作りで発行している文集です。原稿・資料収集、版下づくり、印刷など、製本以外のすべての作業を朝西先生が忙しい中を時間を見つけては作業し、作られました。これはまさに朝西先生のマメな性格を象徴するものです。

  はじめに部の方針が書かれており、部長や顧問の挨拶の言葉に続いて、選手1人ひとりが作文を書いています。さらに、試合記録の一覧表のあと、朝西監督が毎試合後に出してきた野球部通信が実に42号分も掲載されています。

   後半は米商野球部の活躍を報道した新聞記事がこまめに紹介され、筑波大学の大学院で体育方法学を学んできた朝西監督による3本の最新論文が掲載されています。

 総ページ数、圧巻の254ページ。

    

もくじ

方針

第1章 活動(スローガン、チームカラー、活動目的、活動目標、練習のマナー、試合のマナー、自宅での生活)

第2章 挨拶・返事
第3章 身なり
第4章 日本学生野球憲章前文
第5章 学生野球要覧から
回想   野球部長 向陽寛孝
贈ることば   副部長 八劒 修
若き野球人たちへ  副部長 中村国夫
唇をかみしめて   監督 朝西知徳
朝西野球に感謝、感動、感激   コーチ 竹本直行
各部員の声  
記録 平成12年度前期・後期 試合の記録
平成12年度前期・後期 個人成績
米子商業高校野球部通信 No.87〜113、No.114〜128
個人通算成績(投手成績、打撃成績)
役割 チーム役割表
用具管理表
清掃分担表
足跡 スタッフ
背番号
年度期別チーム成績表(〜平成12年度)
個人通算成績項目別歴代ベスト5(平成9〜12年度)
米子−鳥取間駅伝競走大会記録
くにびきマラソン大会記録
卒業生野球継続者
記事 朝日新聞、読売新聞、日本海新聞、山陰中央新報、日刊スポーツ、中国新聞、産経新聞
鳥取県高校野球史
週刊ベースボール、ホームラン(6+7月合併号)、報知高校野球
PTA機関誌「二本木」、同窓会機関誌「大山」、米子松蔭高校入学案内
高校野球に関する研究6ほか
Baseball Clinic
・論文「高校野球における行動様式が選手に及ぼす心理的影響」
・投稿文「全盲の大学野球部監督」の記録−我が師・本田修平氏が戦った9年
・特集「科学との融合−経験のお仕着せではなく合理性のある指導のために」
練習(過程)一覧表
予定表、名簿
あとがき

唇をかみしめて

監督 朝西 知徳

 前任校の監督としてのラストゲームは、炎天下のなか1点差で敗れた。すると青空に突然の豪雨。私は木陰で歯をくいしばりながら、雨が止むのをひとり待った。
 4季連続初戦敗退。本校の監督へ就任した直後の戦績である。つまり米子へ来てからも悲しみの雨は降り続いた。
 以後は県大会において春4強、夏8強、秋準優勝(中国大会出場)、春優勝(中国大会4強、山陰大会出場)と戦績は一気に好転するが、平均理論としての野球を強いられることに変わりはなく、悲しみの雨はやがて苦しみの雨へと変わった。私は唇をかみしめながら、雨が止むのをひとり待った。
 鳥取を野球先進県とするには、大山ではなく富士山の頂上を目指す気概をもち、スケールの大きな野球に取り組む必要があること。さらに平均理論ではトップアスリートは生まれないこと。これらを選手に向かって真剣に説いた。
 むかい風の吹く中、ジャングルに道を創ることにより、我われは甲子園へとたどり着いた。決勝の校歌をうたっているとき、生まれて初めて喜びの涙を知った。歓喜する輪の中で「優勝したぞ−!」と私は叫んだ。選手の手によって宙に舞い、優勝インタビューを受け、ロッキーのテーマ曲に乗りながら皆で手を叩いて凱旋した。これら一つ一つの熱いシーンは、野球人生のハイライトとして永遠に私の心に生き続けるであろう。
 残念ながら甲子園で勝ち上がることはなかったが、全国上位という高い目標に向かって努力したことは、選手の今後を明るく照らすにちがいない。全国でもやはり通用した主戦の投球術。わがチームの野球を象徴する主砲の本塁打。そのスピリットを示す主将のコメント。敗戦に沈む私を救ったのは、そんな彼らをはじめとする選手一人一人の残映であった。
 来年度は「BEISHO」から「SHOIN」へとチーム名が変わる。しかし、胸に入るアルファベットの文字が変わってもユニフォームのスタイルは変わらない。つまり卒業する選手の魂は、チームカラーであるバープルの中に宿り続ける。

 自分を厳しく鍛え上げることでチームに貢献した杉森。ここぞというときに必ず打つ濱。米商の麒麟児山本。誠実な野球人遠藤。日本一タフな投手礒山。甲子園アーチスト市川。ムードメーカー金田。縁の下の力持ち孝田。大舞台に強い杉原。山椒はぴりりと宅野。礼儀正しい竹中。みんなのオアシス本田。少年の心をもつ渡邉俊。忍耐強い渡辺拓。そして可愛い妹松本。

 監督として初めて迎えた君たちの卒業は、とても寂しい瞬間でもある。
 さようなら、米商野球部最後の戦士たちよ。
 革命は血を流すという。
 どうか勇気ある人生を。

(なお、この文章は2月28日の日本海新聞(読者投稿)に『米商野球部最後の戦い』という題で掲載されました)


後輩へ

主将 3年 杉森 克彦

 「試合に勝たせてやることができなくてすまない。」 2000年8月8日、仙台育英に負けた夜のミーティングで監督さんが言われたこの言葉を忘れることができない。甲子園という舞台で監督さんを男にできなかった悔しさで涙が溢れ、食事中は止まらなかった。

 後輩へ:私たちのチームが成し得なかった甲子園ベスト8以上という目標を達成し、朝西野球が全国で通用することを示してください。そして、目標を達成するためには小さな妥協も許されないということを覚えておいてほしい。大事な局面にだけ力を発揮すればいいと思っていたら、大事な局面にカが発揮できない。頑張ったという積み重ねが自信となり、大事な局面に無心で力が発揮できるのだと思う。私たちのチームのスピリットを受け継ぐ新チームには、全てを託すことができるほど信頼している。昨年の文集でも書いたように我が校の野球部が長く強いチームであり続けてほしいから・・・・・頑張ってください。

 私は米商の野球部員であったことに誇りを感じている。良き指導者、良き先輩、良きチームメイトに恵まれ、多くの人に応援され支えていただいたことに感謝の気持ちでいっぱいである。本当にありがとうございました。
 私は多くの人の温かさと良き高校生活の思い出を糧にして、これからの長い人生を歩んでいきたい。良き野球人・社会人として、社会で活躍することが甲子園で勝つことより何倍も尊いことだと信じているから。

あとがき


 中学3年生のとき、私は体育祭の長距離走に出場した。長距離走は花形種目の一つであり、各クラスから2〜3名選出された計14名の選手が出場して優勝を競う。私以外は学校代表の駅伝選手が多く、なかには陸上部に所属する県の有力選手もおり、大方はその選手が楽に優勝するものと予想した。つまり競馬にたとえると私は大穴の競走馬だった。私は体育祭のおよそ2カ月前から練習計画を立て、小学生であった妹と弟にストップウォッチを持たせて深夜もくもくと走り続けた。当時はそういった概念がまだ認識されていない時代でもあったが、本番のレースを想定した今でいうイメージリハーサルも行っていた。当日は練習どおりにスタートダッシュをかけた。そのハイペースに担任の先生が「朝西むりするな−!」と叫んだ。振り返ると有力選手のいる集団は遥か遠くにいた。やがて先生の叫びは「がんばれ−!」に変わり、そして「勝てるぞー!」となった。クラスメイトの大声援を背に私は一気に優勝のテープを切った。生まれて初めての成功体験だった。そして、努力すれば必ず報われることを初めて知った瞬間でもあった。
 礒山のスライダーが拓也のミットに収まった歓喜の瞬間、突然あのときと同じ感覚が私の体を占拠した。

平成13年3月2日
 
朝西 知徳